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生前の須田剋太。デニムのつなぎ服がトレードマークです。
須田 剋太(1988年撮影)
西暦、年号、年齢、出来事を記載していきます。
5月1日、埼玉県吹上村(現鴻巣市)で誕生。
須田代五郎の三男、本名は勝三郎。
3年間の療養生活ののち、病気を克服して
1925年(大正14年)頃に描いた「道」(鴻巣市所蔵)
埼玉県立熊谷中学校(現在の熊谷高等学校)を卒業し、浦和へ転居。
画家・寺内萬治郎がその才能に注目し、光風会への出品を勧める。
(青年時代の画伯の肖像写真)
第22回光風会展に入選。
文展(文部省美術展覧会)で「休憩時間」が初入選。
第2回新文展(新文部省美術展覧会)で「少女座像」が入選。
(注釈・・・新文展は、現在の日展(日本美術展覧会)のこと)
第3回新文展で「読書する男」が特選。
この年、母校である吹上小学校へ寄贈された作品
「桃割れの子」(1937年制作)
(その後、太平洋戦争の混乱で行方不明となり、現在に至る)
奉祝展で「苦力」が入選。
第4回新文展で「若き男」が入選。
第5回新文展で「神将」が特選。
東大寺観音院住職・上司海雲に土蔵の提供を受け、アトリエとする。
奈良・新薬師寺で知り合った岡田静と結婚。
第2回日展で「東大寺正面」が入選。
第3回日展で「ピンクのターバン」が特選。
兵庫県西宮へ転居。
光風会を辞して国画会の会員となる。
画家・長谷川三郎との出会いを機に、以後、抽象画に傾倒する。
日本橋・三越にて個展を開催。
第1回現代日本美術展に出品。
日本国際美術展に出品。
ブラジルの第4回サンパウロ・ビエンナーレ展に出品。
イタリアの第11回プレミオ・リソーネ展に出品。
アメリカのヒューストン美術展に出品。
アメリカのカーネギー国際現代絵画彫刻展に出品。
西宮市民文化賞を受賞。
(この頃の作品)
鴻巣市所蔵の抽象画(1964年制作)
西宮市民会館アミティホールの緞帳を制作
毎日新聞連載、作家・犬養道子の「日本人の記録 犬養木堂」の挿絵を担当する。
(5・15事件で命を落とした犬養毅首相の伝記小説で、道子氏は首相の孫。)
夕刊に約1年間、254話を連載した。
画伯の具象画の発表再開、ひいては「街道をゆく」への道標にもなった。
(原画246点は鴻巣市所蔵)
「日本人の記録 犬養木堂」の挿絵
「第1章 プロローグ」より
週刊朝日連載、作家・司馬遼太郎の「街道をゆく」の挿絵担当開始。
兵庫県文化賞を受賞。
(この頃の作品)
鴻巣市所蔵の作品「牡丹花」(1973年制作)
吹上町文化功労賞を受賞。
多忙を極める画伯は11月の授賞式を欠席したものの、翌月には吹上町文化連盟会長で幼なじみであった上岡良氏(写真の一番左)に感謝の手紙を送付、翌年には里帰りして懐かしい友らと旧交を温めた。
大阪芸術賞を受賞
「街道をゆく」の挿絵で第14回講談社出版文化賞を受賞。
(この頃の作品)
鴻巣市所蔵の墨書作品「生命」(1984年制作)
第17回フジサンケイブループ広告大賞を受賞。
(この頃の作品)
鴻巣市所蔵の作品「寒山拾得」(1988年制作)
埼玉県立近代美術館で「須田剋太作品(抽象)展」を開催
長野県飯田市美術博物館で「知られざる須田剋太の世界 抽象画と書・陶」開催
7月14日、神戸市内の病院で死去